日記

片想い(著:東野圭吾)

2015.09.22

東野圭吾作品は数が多いので、刊行されているもののうち何割を読んだのか判然としませんが、この作品は今のところ『白夜行』の次くらいに面白いと思いました。

「学生時代の部活仲間」「語り草になる最後の試合」幾つかの状況が、読んでいて共感、カタルシスを与えてくれます。
といっても、事実は小説よりも奇でもなんでもなく、私自身は教官の不興を買って後輩たちと険悪になるような不届き者でしたが…。

ともかく、この物語が突きつけてくるのは、友情や愛、血のつながりでさえも超えられない壁が私たちの間には常にあるのではないかということです。
主人公?のQBこと哲郎が方々を駆けまわり出会う人々は一様に険悪な態度を取ります。これは説明するまでもなく当然なのですが、しかし、その態度は彼らが向き合ってしまった社会に流れる常識、認識というものの持つ力の強大さを表しているように思います。

つまり、他人はどこまでいっても他人であり、その間にある理解というものが本質を表しているとは限らないということです。
それをある程度許容してくれるのが常識であり、法であり、言語であると思います。作中でも言及されているように、つきつめれば明確な根拠はほとんどないのでしょう。時に科学的な論理ですら、その正当性に疑問がでることはよくあることです。
しかし、正しいか正しくないかに関わらず、大多数が信じているものを自らも信じることは社会性を保ち、生活を維持する上で必要なことであるようにも思います。その信じる力の大きさがある種の人々を苦しめている…かもしれないということです。
そうすると、理解というものにはほとんど意味が無いような気がしてきますが、時に人を理解したいと考えることはよくあることではないでしょうか。

完全な理解というものは傲慢な言い方ですが、言語という意味を持つ記号の集合体でそれを表すことができたら、それは素晴らしいことであると同時に、とても恐ろしいことです。
自分以外の他者とは、自分の理解によって他人でいることができ、自分以外の理解によって自分自身が他人でいられる。ここで言う理解とは、ただ存在を認識している程度のことに過ぎません。これが完全なものとなるならば、他人などただのモノに成り下がるような気がします。

普通は理解したいとは思えど本質まで踏み込むことは中々ないと思います。その本質というものも自分の認識で捉えるしかない以上、やはり理解というものには限度がありそうです。
本当はもっと色々な事象や要素が絡んで人間関係ができあがっているのでしょう。経験などは言葉にしやすいものだと思います。それでも、本質を理解することはとても難しいことのように思えます。

極端な例だと、私は戦争体験などがそれにあたると考えることがあります。戦争は悲惨なものであり、今の時代からは考えられないような現実がそこにあった…言葉では理解できます。本当です。
ですが、私はいくら訓練したところで、戦場では使いものにならないでしょう。銃の重さに負け、国を背負うことの重さに疲れ、国民の期待に潰されるのだと思います。死にたくはありません。ですが、たとえ私が戦争反対を訴えたとしても、その言葉には実体験が伴っていません。実体験がなくとも人は話せますし、他人を納得させることはできるのでしょうが、私はその根拠に疑問をもたざるを得ません。その実、なにがあっても戦争にはならないだろうとか、高をくくっているわけです。平和にボケちゃってるとも言います。そして、より深く理解することを放棄しています。
例えば、ネットで有名な硫黄島戦闘体験記というものがありますが、これをほとんど娯楽として読む自分がいます。しかも、脚色なしの真実(かどうかはわかりませんが)とくれば、そのリアリティ?により一層娯楽性を見出すわけです。日記を書かれた方の意図は不明ですが、私の読み方…楽しみ方は人によっては不快に思われるかもしれません。しかし、私の外向けの認識が概ね常識的な範囲であれば、咎を受けることはないのでしょう。私にとって、これはとても小さなことです。

作中では、登場人物それぞれがほとんど明確な意思表示をします。これは物語としては当然ですが、しかしそれをお互いが理解しあっているかどうかはかなり不明瞭です。学生時代に部活動を通して得られた理解は、所詮ゲームのルールの上に成り立つものでしかなく、社会人となり、立場が変わっていくなかで、彼らの友情や愛情では超えられない壁にぶつかってしまう。そういったことは現実でもよくあることです。それでも主人公は仲間の姿を追い求めました。
各々が別の道を行こうとする中で、ある共通の地点で立ち止まったとするならば、そこからはかけがえの無いものが見えたはずです。

助けることはできないかもしれない、理解することは難しいかもしれない、一緒にはいられないし、敵になることもある…もしかしたらイイことがあるかもしれないし、ないかもしれない。
他人と関わって得られるものは、有意義な時間、金銭、欲求を満たす何か…しかし、それを得られないとわかっていても、その先にはなにもないと知っていても、それでも人は他人に関わろうとすることがあります。
その瞬間、人は人が生きる理由の一端を垣間見るのかもしれません。

, Amazonアソシエイト, 東野圭吾, 片想い, 本を読んだ