滝山コミューン一九七四(著:原武史)
少し前に話題になったゴルスタ騒動で、関連した記事についていたコメントで紹介されていた本です。
Wikipediaによれば、コミューンとは『地方自治体の最小単位』とありますが、この本で言うコミューンとは社会運動における共同体を指すもののようです。
ある種のディストピアだとか、いまでは廃れてしまった社会体制、近年ではあまり聞かれなくなった思想などを想像せずにはいられない、とても興味を惹かれる素晴らしいタイトルだと思います。
この本は著者の小学校時代に起こった出来事を、当時の資料や関係者の証言から紐解いていく回顧録的な形式となっています。
著者や同級生の家庭環境、社会情勢、滝山団地という陸の孤島の特異性、学級集団が目指すもの…著者が『滝山コミューン』と呼ぶ共同体が実際に形成されていたのは全体から見るとほんのひと時であるように思いますが、そこに至る経緯と引用を交えた考察には十分な説得力を感じます。
一方で、著者自らが言うように各々の情景に対する著者の主観が色濃く出ているのも確かです。偽らざる真実を詳らかにするという姿勢は、一方で客観的な見方を排してしまうジレンマを孕んだものになっています。
とはいえ、蓋然性が失われているかというとそうでもなく、ドキュメンタリーとして良質な描写がなされています。
気になるところといえば、当事者への取材や資料などの協力のわりに、著者以外の関係者が当時のことをどう考えているのか殆ど語られないところです。
1974年度後期の代表児童委員長を務めた中村美由紀が著者に対してトラウマという言葉を使いながら語り、涙を流した(P.296)、著者に強烈な印象を与えた林間学校の運営委員長を務めた小林次郎が控えめに当時の心境をコメントする(P.236)など簡潔なものにとどまっています。
また、事実の羅列に対して、実際起こったことに対する描写がところどころ曖昧で憶測として記述されており、例えば前述の中村美由紀にはおそらく相当な取材を行ったはずであるのに、著者に対する『追求』の場で”ただこのとき、片山先生や中村美由紀がいたかどうかははっきりしない(P.298)”とするなど、どういった理由ではっきりしないのか、判然としない箇所があるのも確かです。
取材対象の個人情報への配慮や各人の記憶の欠如(P.324)が大きな理由だと思われますが、私が読んでいて足りないと思う理由に、一つ著者と目的の違いがあるのではと考えました。
読者である私は物語としてのディテールをみるが、しかし著者にとっては懐かしい記憶の一部であるということです。そこには書き手と受け手の根本的な齟齬があり、こういった面を指して「欠陥」を抱えていること(P.237)を認めているのではないかと感じました。
しかし、著者がかつて住んでいた地に自ら足を運んで感じた一つ一つの情景、当時の膨大な資料によって補強される思い出の数々に偽りはなく、それらが真摯に綴られた文章を読むに、この本の読者は、そういった思いに感化し自らの在りし日を想起せずにはいられない、そんなノスタルジーを内包した一冊です。